プログラマは、その仕事において1か0かの選択肢を持つ。
システムのマネジメントをする人間は、その仕事において1か0か、そして第3の可能性、という選択肢を持つ。
ロボットは、1か0かの絶対的な選択肢以外は持ち得ない。
人間は、1か0かでは表せない相対的な選択肢を持ち得る。
人が、アンドロイドを描けば描くほど、人のそれに酷似するのは、なぜか。
絶対的真理をもった完璧な感情のロボットを「アンドロイド」として描きたかったはずなのに、
そこに、悲しみや悩みや苦しみといった泥臭い感情を与えてしまうのはなぜか。
人が当たり前に持つ感情をアンドロイドが理解できないシーンを見て、
それを不完全だと思ってしまうのはなぜか。
それをパーフェクトだと思えないのはなぜか。
大抵の場合、人の行動の結果のみに焦点を当てれば、1か0かで表せるだろう。
しかし、その行動を選ぶまでの過程に存在する、思考や概念や考え方や想いは、
1か0かでは表せないことが多い。
その1か0かで表せない部分を人は、文字によって綴る。言葉によって表す。
考えや概念として提供する。
人は絶対的だけでは生きていけない。
人が呼吸できる場所は、絶対的の向こう、その先にある相対的、客観的、主観的な世界だ。
絶対的を基点として、その先には人が100人いれば100本の線ができる。
貴方と私、自分の線が位置する場所は、意外にすぐ隣かもしれない。
でも、端と端、一番遠くかけ離れた場所かもしれない。
問題は、その距離をまず理解し、お互いの妥協点どこに見つけるか、
そして、どちらが先に妥協点を見つけるために動けるかだ。
それが見つかり、線が重なり合ったとき、
人は、1でもなく0でもなく、第三の新しい答えを手にする。
たぶん私にとって言葉の主体的役割は、
事象や事実や出来事を説明するためではなく、
想いと感情と考えと思想と概念を説明するためのものなんです。
事実は言葉すくなで伝わる。
でも・・・・
i, ROBOT