HOTWIREDより
研究結果「メールの意図が正しく伝わる確率は5割」
基本的に文章というのは、主観で成り立つものだと思う。
文字や文章によって残される歴史も主観の産物だ。
真に客観的な視点で書かれた歴史資料というのは少ないと思う。
話題のスポットはアメリカだけど、同じ事は日本でも言えるだろう。
というより、電子メール文化が浸透しているところではどこでも同じかもしれない。
人は往々にして、客観的であるという判断すら主観的に行っていることがある。
記事の中で、シカゴ大学のニコラス・エプリー助教授(心理学)の
『「書き手が、メッセージに込めた意味合いや感情は明確だと往々にして思うのは、
書きながら自分が意図する意味合いを頭の中で『聞いて』いるからだ」』
という説明が引用されているが、まさしくその通りだと思った。
文章を書きながら、人は文章として表現された言葉の前後や行間に、
頭の中で、ありとあらゆる注釈や意味付け、定義をしながら書いている。
結果、書いた本人は、正確に綴られたと思いこんだ文章でも、
相手にその注釈や意味付けは伝わらず、受け取った読み手は必然的に
自分の主観による注釈や意味付けを行いながら読む。
同じ言葉を聞いても、同じ表現を聞いても、
その人の育ってきた環境や、価値観、倫理観、道徳観念、性格、
その他あらゆる条件によって、本人に見えている形は異なる。
同じ形に見えたとしても、その人が取り巻く環境によって、
そのイメージの周りに配置されるモノが異なれば、形の色や光り方は異なり、
結果として捉えられる全体的なイメージは、異なった印象で記憶に残る。
コミュニケーションの手段として存在する言葉や文章ではあるが、
必ずしも同じ意味合いやイメージをすべての人に彷彿させる保証はどこにもない。
これが言葉や文章の醍醐味でもあり、欠点でもあると思う。
人は、そのことを前提に言葉を操り、文章を紡ぎ出す必要があるんだろう。
読み手も然り。
自分の思いが常に正確に伝わると思いこまず、
相手の意図を常に正確に把握したと思いこまず。
これが、コミュニケーションの鉄則。
言葉や文章で何かを表現するということの意味を再考させられる記事だった。