エキブロ・メディカルより「
医療者のパターナリズム」に久々のTBです。
医者になることはありえない立場から正直な第一声をまず。
たとえ病気に罹った原因が自らの悪癖のせいであったとしても、
医者に「救いがたい連中」だとか、病気になって「当然である」とは決して言われたくない。
少なくとも、罹患した時点で医者に通っているのは、今、生きたいと願うからだ。
少しでも長く生きていたいと願うからだ。
そう願わなければ、大抵の場合は医者にかかることなどしないと思う。
悲しいかな、人間は失ってみなければ理解できないことや、
我が身に降りかからねば理解できない結果があることも事実なのだ。
特に「死」や「病気」は、目の前にぶら下がって、
自分の足下をすくわれないと実感のわかないもの。
私はそう思います。
割り切れといって割り切れることではないけど、それが現実なんじゃないでしょうか。
一人でも多くの人の健康を願い、治癒を願い、日夜働いている医者からすれば、なんて無意味な事を!と思うのは理解できる。そのために死んだとしても、命を救えなかった事を医者のせいにするのは論外だ。はっきりと体に害があると警告されている事を知りながら、悪癖を絶たなかったことは患者の自己責任である。根本的なところを突き詰めたら、生と死の概念に対する考え方や捉え方の違いなのかもしれない。
日々、人の命を預かり生と死を見、救いたいと必死に手を尽くしたのに救えなかった命を目の当たりにしている医者と、毎日、安全が確保されており食べるものにも困らず悲惨な体験もせず、恵まれた環境で生活している人とでは、当然ながら死生観に差が出る。命の大切さに気づくこともなく過ごしているように見えるのかもしれない。
親が我が子に真っ当な道を歩むように、恵まれた環境で生活できるようにと願って、細心の注意を払い、献身的に育てたとしても、子供は必ずしも親の権威を認めるわけではなく、それに常に服従したり、親に全幅の信頼を抱き続ける保証もなく、子が親の思いを十分理解できるわけでもなく、親の願いどおりの順風満帆な人生を歩むとは限らないのと似たようなものではないだろうか。(もちろん医者に親と同じだけの献身的姿勢を求めるわけではないけれど)。
医者がどれだけ最新の知識と技術と設備と献身をもってしても救えない命がある事を、患者が理解しなければならないのと同じく、医者も、どれほど手を尽くしても患者は常に医者の指示に従い続けることはなく、自らの体を常に労わり続けるわけではない。医者が患者の視点で物を考えてみること、患者が医者の立場で物を考えてみること、こんな感情移入や視点の変更は誰にでもできることではない。
それでも、医者はこの世に「人」が存在する限り、なくてはならない存在だと思う。
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ところで、
パターナリズムという言葉にあまり馴染みがないのは私だけかしら?^^;
以下、調べた結果を自分なりにまとめてみました。まだ、整理しきれていないので、間違いや語弊があれば、お気づきの方はコメントもしくはメール(左端メニューブロックの下の方にリンクがあります)などで是非お知らせください。
元来の
パターナリズムは、
ヒポクラテスの誓いが元になっているといわれている。現代ではピタゴラス学派によって
ヒポクラテスの誓いが始まったと考えられているそうだ。
パターナリズムとは、そもそも「父性主義」「父権主義」「温情主義」などの意味をもち、父親が自らを慈しむように子を慈しむ愛、それを何の疑いも抱かず受け入れる子供、という構図である。つまり、医者は自らの体を治療するように患者の最善を考えて治療に当たり、患者は医者に全幅の信頼を置き医者に身を委ねるという概念が、長い時代の間、常識的な医者と患者の関係であったことがうかがえる。もともとの
パターナリズムには、現代においてイメージされるような傲慢さは存在しなかったのかもしれない。
昨今の医療の現場における
パターナリズムとは、
インフォームドコンセントの対極に位置する言葉とでも言えばいいのだろうか。一般的な(?)イメージでは、この
パターナリズムは、「患者は黙って医者の言うことを聞いておけばいい」という考え方を指すようだ。医者は患者に対して、自らに全幅の信頼を置く事を求め、医療方針に対する決定権や選択権を医者が持とうとすることを
パターナリズム、医療方針に対する決定権や選択権を患者が持ち、医者には説明の義務を課す事を
インフォームドコンセントといえばもっと分かりやすいかもしれない。ただし、本来そこには医者の傲慢や不遜な態度を許容する余地はなかったと思われる。
ただ、この
ヒポクラテスの誓いが実践され始めた時代は、認知されている病気の種類や医療技術や治療方法ははるかに少なかった。それに対して現代は、あまりにたくさんの病気が存在し、非常に多くの治療法や薬が現存し、時には医療倫理に触れるとされることまで出来るようになっている。何も聞かずに医者に全幅の信頼を置いて治療方針や薬を任せるには、時代が複雑すぎる気がする。
そんな時代背景に加えて、「自由」や「人権」を主張する事を覚えた人類は、医療に関してもその権利を行使したのが
インフォームドコンセントなのかもしれない。でも、自らの命に対して責任をもてるのは、己しかいないのも事実だと思う。
インフォームドコンセントを主張するにしても、
パターナリズムを主張するにしても、医者の義務や責任だけではなく、患者の側の義務と責任も必要な時代なんだろうな。知らないから、わからないから、だけでは済ませられないのかもしれない。